母の日 2。
母の日に娘たちから手紙をもらいました。
偶然か、打ち合わせ済みなのかは分からないけれど、書いてあることが2人ともほぼ同じ。
それは「まいにち、おいしいみそしるをつくってくれてありがとう」でした。
毎日私はたいした料理は作れていませんが、朝は欠かさずお味噌汁を出汁から取るようにしてつくっています。
手慣れると全然手間ではなくて、出汁かすをどうやって利用しようか、なんて考えるのも楽しくなってきているほど。
お味噌汁は母の記憶、、なんて子供たちに思ってもらえる日がきたら。それが幸せだと思って作っています。
この頃の長女、次女は、夫婦の会話を聞いて仕事から家庭までの状況を大枠掴み、鋭い質問をしてくるときがあります。
洞察力が芽生えてきたと思っていた矢先、娘から言われてハッとしたことがありました。
ひとつは、「ママは、いろはのことがだいきらいやもん」と、
私に叱られた後に次女のいろはが言った言葉。
叱られる=嫌われているという発想なんですよね、まだ。
叱るほうも相当のエネルギーをかけて言ってるのよ、なんて事もまだ通じず。
嫌いだったら注意もしませんよ、なんて事も全然通じず。
思い返せば、私も「叱られる=期待されている」ということが心底理解できたのは、子供時代ではなく、
本気で叱ってくれた前職の上司から学んだ事だったように思います。
冷静に考えたら、まだまだ大きな視野で見ることのできない子供らしい言葉ではあるのですが、
いつの間にか毎日のリズムを壊さないようにと、子供より時計をよく見て注意してしまった私は、
こうしたギャップを生んでしまったわけなのです。
今はそう思われても、いろはが今の私の年になるころには、愛されていることを真に感じてくれたらそれでいい、と思っていましたが、
できればもっと早い段階で気づいてもらえるように、母として努力していこうと決心した母の日でした。
もう一つは「「カシャ」って言うからママ笑って!」と長女のかんなが言ったこと。
どうやら私がいかに日頃の生活で笑顔が少ないかを、上手に注意してくれたのです。
「ママは、行ってらっしゃい!って言ってくれるとき、いつも笑顔だから、かんなは心の中で「カシャ」って言ってるよ」と
長女は言ってくれましたが、それはもっと、ママの「カシャ」の瞬間が欲しい!という意味でした。
そんな長女の切実な想いを受け、私は完全に日常生活を反省したわけです。
自分のことは自分が1番わかっていないのだと気付かされます。
子供であっても、注意してくれる人がいるということは、幸せな環境に身を置いているのだと、
40の今となっては思うことができます。
私にとって今年の母の日は、幸せで、改善を決意する日となったわけです。
こちらこそありがとう。
inoueakiyo