泣いてもいいよ
寒くなってから作ってきた、干し柿、切り干し大根、柚子シロップができてきました。
どれもシンプルなものですが、手間と時間を掛けて作ってきたものはその時々の光景や時間も含めておいしく感じるから、また作りたくなります。
私は子どもたちを自宅(井上家)とは別の市の幼稚園に通園してさせていることもあり、毎日車で園へ送っていく生活がこれまで5年、あと3年続きます。
子どもたちは幼稚園の玄関先で私と別れることになるのですが、その別れに対して最近随分と嫌がるのが3番め。。
入園したてでもないのに、なかなか離れてくれないのでものすごく困るのと、12月にもなって園内に鳴き声が響き渡りとっても目立っております。。。
でも朝メソメソしているだけで、時間が経つと周囲と順応し遊びに夢中になっていく、というのが先生からの報告です。
夕方は一変して「楽しかったー!」と帰ってくるのです。
そこでその帰りのテンションのままに、「明日は泣かずにいける?」の質問をすると、長男は「うん!泣かずに行ける!!」と自信をもって答えます。
しかし、やっぱり。
朝になると玄関前で泣かずにはいられない日が長く続いていました。
大人になると人前で泣くということは、私はつらいお別れの時か、相当意志に反して悔しい時に限定されてきています。
日常、泣きたくなることがあっても人前ではぐっと堪えて遠慮する、それが大人だ、という感覚で育ってきたように思いますし、そういう自分になっています。
気がつけば、小学生になった長女も、次女や長男と比べると随分泣かなくなりました。
泣くことは「恥ずかしい」、「子どもっぽい」そんな感情が長女にも芽生えてきたようです。
そんな長女も、学校という社会から抜け出し、一歩家庭に帰ってくるとシクシクと泣いて私に悔しさを伝えてくれるときもあります。
そんな長女の泣いている姿を見ていると、偽りのない気持ちが伝わってきて正直な気持ちで生きる、ということも大切だと思えました。
ある時、毎朝泣いている長男に「今日は泣いてもいいよ」と伝えてみました。
その日の長男の反応は
「だめ!泣かない!!」
泣いてもいいよ、と言われると、一転して自分で泣かないことを決めたようです(笑)
単細胞なシンプルさに憧れてしまうほどキッパリ。
自分の気持ちと離れた要望を押し付けられ、その場凌ぎで相手(私)に対してYESと答えても、
その場は相手を少し安心させるだけで、結局本人は納得していないのでやっぱり泣いてしまう。
息子は登園に関してそのルーティーンをめでたく打ち破ることができたようです。
それからは、その場で約束をすることよりも、自分で解決する方法を導いてあげた方がいいのでは、と長男を見て思ったわけです。
大人にもすごく共通しているように思います。
仕事に対してもそう、結局は自分の意志で決めた「覚悟」というものが、最後までやり遂げたり成し遂げる過程のエネルギーになるのではと。
導いていく、ということは決して容易なことではないですが、全力で泣いて否定する子供たちの姿を見て、
それが羨ましくもあり、この先のことについて考えるのでした。